考えがち

難しいけど面白いことを考えて、やさしく面白い伝え方ができる、そんな人になりたい。

渋谷の不思議な男女の話

先日渋谷のカフェにいたら、隣のテーブルの男女が不思議な会話をしていた。

「私、グロテスクなモノって『美しい』と思うんです。」

と女性は言っていた。ピンクの長い髪をした、かなり目立つ風貌の方だった。

 

正直僕がそんなことを言われたらドン引きして返答に詰まると思うのだけど、男性の方はウンウン相槌を打っていた。2人の関係性もだいぶ気になるところだったが、何よりその異様な会話が気になり、しばらく聞き耳を立ててしまった。

 

彼女の言っていた「美しさ」は、僕が夕焼けを見て感じる「美しさ」と同じ感情なのだろうか。それとも、全く異質なものを同じ名前で呼んでいるだけなのだろうか。

 

でも、思えば自分の中でも「美しさ」の範疇はかなり広がっている。

見事な絵画、優雅な音楽、洗練された数式、整然とした理論、顔立ちの整った女性、一貫した生き方、合理的な投球フォーム、

こういった多岐にわたる、一見共通点の見出しづらい対象に対して、僕は一括りに「美しい」という感想を抱く。「美しい」って、何のことなのだろう。

 

共通点を考えてみると、美しいものに対しては思わず「見入ってしまう」あるいは「聞き入ってしまう」と言えそうだ。見聞きできない抽象概念にも美を感じたりするが、その場合も「心を惹かれる」。思わず意識を向けたくなる対象を、人は「美しい」と表現したくなるように思われる。

 

と、ここまで考えてWikipediaを調べてみたら、美とは

「知覚・感覚・情感を刺激して内的快感をひきおこすもの」(出所は広辞苑)

とのこと。なるほど。そんな感じだ。

 

でも、本当の問題は、上に挙げた諸々の物事が、あるいは渋谷のカフェの男女にとっての「内臓」が、なぜどれも「内的快感」を引き起こすのか、ということだ。それぞれの対象の含んでいる何かが、人の心に響いていると思うのだが、それは一体何なのだろう。

 

考えてみると、美しいものの多くは「秩序」と関係している。上に挙げた例もどれもとても「秩序立っている」物事と言えそうだ。人は秩序を目にすると内的快感を覚える、というのが1つあるだろう。

 

しかし、内臓は何なのだろう。僕が映画とかで内臓を目にしても特に「快感」を覚えない以上、僕がその「美」の根源を突き止めるのも所詮無理なのだろうか。謎は謎のままである、、、