考えがち

難しいけど面白いことを考えて、やさしく面白い伝え方ができる、そんな人になりたい。

シンドラーのリスト、力について

土曜日のことなんですが、

スティーブン・スピルバーグ監督の映画

シンドラーのリスト」を見ました。

 

非常に有名な名作なので、

すでにご覧になっている方も多いかと思います。

第二次大戦の時代、

実業家のシンドラー氏が己の全てを賭けて

大勢のユダヤ人を虐殺から救った、

実話に基づいた映画です。

 

あまりに重たいテーマ、深く心を打つストーリーももちろんですが、

白黒映画にパートカラーを取り入れた映像表現が

物語のキーとして巧みに用いられており

一度見たら忘れられない何かを

必ず心に残していく映画だと思います。

 

さて、一つ私にとって印象的だった場面として、

シンドラー氏と残虐なSS将校アーモンとが

酒を飲んだ後テラスで会話する場面があります。

 

アーモンは不意に自宅のテラスからランダムにユダヤ人を射殺する、

いわゆるサイコパスと呼ばれるような人物です。

彼の非道ぶりを何とかしようとして、

シンドラー氏は以下のような話をします。

 

「皇帝の話を知ってるか? 盗っ人が引き出されて、皇帝の前にひれ伏し命ごいをする。殺されると知っててね。だが皇帝は、彼を許す。その虫ケラを放免する。それが力だ、アーモン。」

殺さないことこそが力だ、という逆説的な話は

アーモンになかなか影響を与えたようで、

(一時的にですが)アーモンはむやみな殺戮を抑制するようになりました。

 

私は、これはサイコパスなアーモンに限らず、とても普遍的なエピソードだと思います。

人は実にしばしば、

むやみやたらに自分の力を誇示しようとします。

 

必要以上に威張り散らす、怒鳴り散らす。

しなくてもいい自慢をする。

いわゆる「パワハラ」だってその一つです。

 

だから、人はもっと「本当の力とは何か?」という大袈裟な見かけをした問いについて、

日常の事として深く考えてみるべきだと思うんです。

「本当の力」でない何かを一生懸命誇示する人は、

実は情けなくも「弱さ」をさらけ出している。

 

と、別にパワハラに困ったりしている訳ではないのですが 笑

自戒として心に留めておきたかった事を、

つらつらと書きました。

 

いつかもう一度映画を見直してみたいけど、

ただでさえ重たい内容なのに、

3時間あるから体力ごっそり持ってかれるんですよね、、

また何年かしたら見直したい。

価値観、孤独について

2010年代のインターネットは、

人々のモノの考え方に対して

根本的な影響を与えてきたと思います。

 

10年、20年前の社会では、

人々は世の中を、

テレビや新聞といった代表的なマスメディアが伝える

指折り数えられる程度の角度からしか眺めることができなかった。

 

それが今では、

ツイッターやらまとめサイトやら、

そういった「個人の意見を伝える」メディアを通じて、

世の中が多面的な、ほとんど無限にたくさんの角度から

見られるようになりました。

 

世の中の見え方がミラーボールのように多面的になった、

それが2010年代という時代に現れた

大きな変化です。

 

その結果として、社会や人生に対する人々の意見の多様化が進んできました。

自分と同じ見方で世界を見て、

自分と同じような考え方で世界を考える、

そんな人とリアル空間で偶然出会える可能性は、

きっと昔より大きく減ってしまったのではないでしょうか。

 

「価値観の多様性を大事にしていこう」ということは、もっと昔から言われていました。

ツイッターなどの個人発信メディアの進化は、

その潮目に向けて強い追い風を吹かせました。

 

そういう大きな流れの中で

人々はどんどん、それぞれに孤独になってきた。

 

すると、人は自分の生き方というのを、

ほとんど自分一人の頭で考えなくてはならなくなる。

でも、それは結構きついことだと思うのです。

みんながそのような、自分の人生を一から十まで自分で引き受けないといけないという

きつさを抱えて生きている。

 

一方で反動として、

本能的・衝動的で安易な意見が突然幅を利かせたりします。

本能というのは、価値観の多様化した社会においても、

人々を繋ぐほとんど唯一の共通点になるから。

 

トランプが大統領になる流れの中で、

まるで亡霊の蘇りのように、

白人主義的な思想がにわかに台頭してきました。

また、レベル感の違う話ですが、

日本ではやたらと「不倫」がブームになって

沢山の共感を呼んでいたりする。

 

これらの現象は、個人主義のリバウンド、

寄る辺を失った人々が本能の声に思わず飛びついた結果のようにも思われるのです。

 

私は、価値観の多様化と統一の間には

最も心地良い中庸のポイントがあると思っています。

行き過ぎた個人主義

価値観多様化の無思慮な賞賛は、

人をあまり幸せにはしないと思うのです。。。

 

とても大きな話なので、

まだ漠然としか考えられていないし、

自分の意見にそんなに自信もないのですが、

これからもっとこの問題について考えていきたいので、

その出発点として、この文章を残しておきます。

「非」合理主義

「合理主義」という言葉があります。

字義どおりには、「理に適うことばかりをやっていこうぜ」という考え方。

実際には、経済的な意味で理に適う行動、という意味合いで使われることの多い言葉です。

 

私はこの言葉に何かしら逆説的な印象を抱きます。

 

天体の運動しかり半導体回路の挙動しかり、

そもそも世の中のモノは、全部物理法則に従って

「合理的」にしか振る舞い得ないはずです。

そのような中、人間をはじめとしたある程度複雑な生物だけが

「非合理」な振る舞いをしています。

(少なくとも見かけ上非合理に思われます。)

 

この視点に立つと、「非合理に振る舞える」というのは

人間(およびその他の生物)だけが獲得した

ある種の「能力」なのではないかというように思えてくるのです。

例えば芸術活動は何の物質的利益も生じない、経済的に非合理な活動です。

しかし芸術は、GDPには現れない豊かさの源です。

「非合理性」というのは、「豊かさ」と何かとても深い関係を持つ概念に思われます。

もっと言えば、「自由」とは「理にかなわない行動を選択できる能力」のことではないでしょうか?

 

そんなことを思うと、

「非合理的に振る舞う能力」を獲得した人類が

あえて合理性を追求するというのは、

なんだか先祖返りをやっているような気がしてくるのです。

 

前の記事で

kindleを使ってみて改めて紙の本の良さに気付いたという話を書きましたが、

合理主義を突き詰める中で「非合理」の世界の価値が

相対的に照らし出されていくような流れが起こると

もっと面白い世界になっていくような気がします。

kindleと紙の本

今日はずいぶん天気が悪くて、

夕方には雷がバリバリ鳴っておりました。

とても外に出かけられるような様子ではなかったので、

お家でコーヒーを飲みながら本を読んでおりました。夏目漱石の『坊ちゃん』。

kindle上で購入した電子書籍です。

 

半年くらい前にkindleを買いまして、

なかなか便利で愛用しております。

とはいえ、紙の本には紙の本の良さも感じるので、

いまだに紙の本もよく買ったりします。

おそらくkindleをお使いの方の多くが

同じような使い方をされているのではないでしょうか。

 

電子書籍と紙の本を比較したときに、

電子書籍の長所として一番感じるのは、

何といっても場所を取らないというところ。

外に持ち歩くときは、まるで「本棚」を携帯しているような感覚です。

『坊ちゃん』も、夏目漱石全集を丸ごとkindleに入れて読んでおります。

(ちなみに青空文庫上のデータを再構成したような商品なので、

200円くらいで全集が買えてしまう。)

 

また、kindleは単なる電子書籍リーダーではなく

amazonを通して書籍をオンライン購入する機能も備えています。

「本」「本棚」だけでなく「本屋」としての役割も果たしているということですね。

データ化された書籍をワンタッチで購入してすぐ読めるというのは大変手軽で、

ちょっと面白そうな本を見かけるとついついポチっとしてしまいます。

(結果読み切れないほどの本を買いがち、、amazonにしてやられてますね 笑)

 

一方で、紙の本だとページをぱらぱらめくって

読みたいところだけを読むような読み方ができますが、

kindleを使い始めてパラパラめくりができなくなると、

それが予想外に不便であることに気づきました。

名言集とか哲学書みたいな本だと、

一部分だけを読み返したくなりがちなので

紙書籍の方が向いているなと感じます。

紙を束ねた書籍という形態は、

実はある種の長い文章を読むためのインターフェースとして

非常に優秀なんですね。

 

また、紙の本を本棚にたくさん並べると、

収集欲が満たされるような感覚があります。

紙の本が持つ様々な微妙な魅力を電子書籍が代替することは

どれだけ技術が進歩しても難しそうです。

 

kindleというのはよく「本」を近代化したものと捉えられがちですが、

こうやって考えてみると、実はこいつは

「本棚」「本屋」を便利な形に置き換える存在なのでしょうね。

書籍を読むインターフェースとしての機能や質感といった「本」としての側面では

紙の書籍に劣るけれども、

「携帯できる本棚」「家から買える本屋」として、革新的な利便性を備えた道具である、と。

 

今後も紙の本とkindleを並行して愛用していくことになりそうです。

ハンドスピナー、おもちゃのアイデア

今日街を歩いていたらね、

ハンドスピナー」なるおもちゃを店頭で売ってるお店があったんですよ。

UFOみたいな円盤が机の上に並べられてて、

シュヴィィィンっつって回転してるの。

 

そのときは、おもちゃの見た目も胡散臭いし、

店頭に立ってた赤Tシャツのお兄ちゃんの

「今話題の!ハンドスピナーですよ~」

という呼びかけも明らかに嘘くさかったので

横目に見つつ遠巻きにササッと通り過ぎたんですけど、

家に帰ってから調べてみて、もう口開けてビックリしちゃいましたわ。

 

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うわっ、amazonのおもちゃランキング上位独占やんけ。

疑ってごめんよ、赤Tシャツのお兄ちゃん…!

ワシの知らん間にこんなものが流行っておったのか、、、

 

このハンドスピナー

見た目からはどう遊ぶおもちゃなのか全然想像つきませんが、

どうやら指で中央の軸部分をつまむように持って、

車輪のようにひたすらくるくる回すのが基本らしい。

伝わりますかね??笑(youtubeにたくさん動画あります)

 

くるくる回すだけ…それだけ。はたして楽しいのか?

全く想像つかないのですが、不思議と暇つぶしになるとか。

 

なんだか気になるし、amazonで見てると値段も安い…

しっかし色んな無名メーカーから出てて胡散臭いな。

と思いつつ、やはり1個ポチってしまいました。

いつ届くかなあ。ワクワク。

 

調べてみると、

この類の手遊びおもちゃは英語圏ではFidget(finger+gadget)という

ジャンル名までついているらしい。

そんなよくワカラン ジャンルが成立しちゃってるのか…

恐るべし21世紀。

 

おもちゃって、無限プチプチとかコップのフチ子さんとか、

「よくこんなん思いついたな!?」って思う商品多いですよね。

ハンドスピナーも、こんなシンプルなものが流行るなんて、事前にはちょっと想像つかない。

おもちゃ業界はアイデアのジャングルですね。

 

でも、これだけ次々と新奇なものが生み出されて、

いつかヒット・アイデアがすっかり枯渇してしまう日って来ないんでしょうかね?

もちろんただただ変なものを生み出すことは無限にできるけど、

人々の心にヒットする商品の種類って、はたして無限に存在するのだろうか?

 

人の興味関心が無限に膨らんでいくのなら、

それを満たすモノの種類も無限に膨らんでいくのでしょう。

でも、人の興味関心が有限に留まるのなら、

いつか人があらゆるモノ・コトに飽きてしまう日が来るのかな、、

 

そうならないでほしいものです。