考えがち

難しいけど面白いことを考えて、やさしく面白い伝え方ができる、そんな人になりたい。

『しゃべくり』、中身とガワについて

『しゃべくり007』が好きです!

疲れたときにぼーっと見てると、気づけばニヤニヤしていて、元気になれてしまう。

特に美女ゲストの回を見るのが好きです 笑

 

『しゃべくり』って、一見トーク番組みたいに見えるけど、

冷静に見ると全然トーク番組じゃないですよね。

ほとんどゲストをお題にメンバーが大喜利をしているだけという 笑

中身が無いと言えば中身が無い、、

 

でも「中身が無い」という言い方も中々不公平ですよね。

『しゃべくり』で言えば、これだけ人を笑わせ元気にしているのに、

勝手にその要素を「ガワ」扱いされて、「中身が無い」とか言われたら、

あの温厚なホリケンもキレちゃうかもしれません。笑

 

よく「中身の無い人」という言い方をしますが、

実はそういう人は「ガワ」が「中身」なのかもしれませんね。

何を大事にするかは人それぞれですし、

受け取り手もそれをいろんな見方で見ればいい。

笑いについて

笑いって、不思議な現象ですよね。

可笑しいことが起こると人は笑います。

 

「可笑しさ」には個人差があります。

そして多くの場合、それは自分の中の「当たり前」と、

目の前の出来事との間の矛盾が立ち上げる気持ちです。

 

でも一方で、当たり前の物事の可笑しさに

ふと気づくこともあります。

そんなときは、

「当たり前」より「当たり前」な何かが、

心の底にあるのでしょうか。

直感、とでもいうべきような。

 

また、人はあまりにも上手くいきすぎな物事を、

かえって可笑しく感じて笑ってしまうことがあります。

矛盾していないということに、かえって矛盾を感じるのでしょうか。

 

そうこう考えると、「意外性」こそが笑いの本質でしょうか。

そしたら、「驚き」と「笑い」の間にあるものは何でしょうか。

 

そして、ヒトは笑いますが、猫は笑いません。

 

笑いって、人の感じる様々な感情の中で、

一番謎に包まれていると思いませんか。

ほぼ日、若さについて

私は「ほぼ日刊イトイ新聞」を毎日読んでるタイプの人間です。

糸井重里さんが毎朝「今日のダーリン」というコラムを書いている。

 

とても瑞々しく面白い文章を毎日書いてくれる糸井さんなんですが、

改めて調べてみると、もうそこそこお爺ちゃんです。

御歳68才。

でもお写真を見ても若々しい。

 

アタマの若々しさと、カラダの若々しさが

まるで相関しているような例って、

結構見かける気がします。

(逆も然り)

 

こういうのって、

アタマとカラダ、どっちが原因なんでしょうね?

いわゆる「鶏と卵」の関係なのかな?

 

個人的には、カラダが先に来るような気もしています。

カラダというか、見た目。

見た目が若々しい人は、実年齢よりも若い人として扱われがち。

すると、周りの扱いに合わせて、

精神も若さを保とうとするように思われます。

 

見た目の若さって、

肌年齢やら何やら以前に、

ちょっとした姿勢の良さとかでも生み出せるもの。

 

若々しい見た目、振る舞いを心掛けたいものですねぇ。

シンドラーのリスト、力について

土曜日のことなんですが、

スティーブン・スピルバーグ監督の映画

シンドラーのリスト」を見ました。

 

非常に有名な名作なので、

すでにご覧になっている方も多いかと思います。

第二次大戦の時代、

実業家のシンドラー氏が己の全てを賭けて

大勢のユダヤ人を虐殺から救った、

実話に基づいた映画です。

 

あまりに重たいテーマ、深く心を打つストーリーももちろんですが、

白黒映画にパートカラーを取り入れた映像表現が

物語のキーとして巧みに用いられており

一度見たら忘れられない何かを

必ず心に残していく映画だと思います。

 

さて、一つ私にとって印象的だった場面として、

シンドラー氏と残虐なSS将校アーモンとが

酒を飲んだ後テラスで会話する場面があります。

 

アーモンは不意に自宅のテラスからランダムにユダヤ人を射殺する、

いわゆるサイコパスと呼ばれるような人物です。

彼の非道ぶりを何とかしようとして、

シンドラー氏は以下のような話をします。

 

「皇帝の話を知ってるか? 盗っ人が引き出されて、皇帝の前にひれ伏し命ごいをする。殺されると知っててね。だが皇帝は、彼を許す。その虫ケラを放免する。それが力だ、アーモン。」

殺さないことこそが力だ、という逆説的な話は

アーモンになかなか影響を与えたようで、

(一時的にですが)アーモンはむやみな殺戮を抑制するようになりました。

 

私は、これはサイコパスなアーモンに限らず、とても普遍的なエピソードだと思います。

人は実にしばしば、

むやみやたらに自分の力を誇示しようとします。

 

必要以上に威張り散らす、怒鳴り散らす。

しなくてもいい自慢をする。

いわゆる「パワハラ」だってその一つです。

 

だから、人はもっと「本当の力とは何か?」という大袈裟な見かけをした問いについて、

日常の事として深く考えてみるべきだと思うんです。

「本当の力」でない何かを一生懸命誇示する人は、

実は情けなくも「弱さ」をさらけ出している。

 

と、別にパワハラに困ったりしている訳ではないのですが 笑

自戒として心に留めておきたかった事を、

つらつらと書きました。

 

いつかもう一度映画を見直してみたいけど、

ただでさえ重たい内容なのに、

3時間あるから体力ごっそり持ってかれるんですよね、、

また何年かしたら見直したい。

価値観、孤独について

2010年代のインターネットは、

人々のモノの考え方に対して

根本的な影響を与えてきたと思います。

 

10年、20年前の社会では、

人々は世の中を、

テレビや新聞といった代表的なマスメディアが伝える

指折り数えられる程度の角度からしか眺めることができなかった。

 

それが今では、

ツイッターやらまとめサイトやら、

そういった「個人の意見を伝える」メディアを通じて、

世の中が多面的な、ほとんど無限にたくさんの角度から

見られるようになりました。

 

世の中の見え方がミラーボールのように多面的になった、

それが2010年代という時代に現れた

大きな変化です。

 

その結果として、社会や人生に対する人々の意見の多様化が進んできました。

自分と同じ見方で世界を見て、

自分と同じような考え方で世界を考える、

そんな人とリアル空間で偶然出会える可能性は、

きっと昔より大きく減ってしまったのではないでしょうか。

 

「価値観の多様性を大事にしていこう」ということは、もっと昔から言われていました。

ツイッターなどの個人発信メディアの進化は、

その潮目に向けて強い追い風を吹かせました。

 

そういう大きな流れの中で

人々はどんどん、それぞれに孤独になってきた。

 

すると、人は自分の生き方というのを、

ほとんど自分一人の頭で考えなくてはならなくなる。

でも、それは結構きついことだと思うのです。

みんながそのような、自分の人生を一から十まで自分で引き受けないといけないという

きつさを抱えて生きている。

 

一方で反動として、

本能的・衝動的で安易な意見が突然幅を利かせたりします。

本能というのは、価値観の多様化した社会においても、

人々を繋ぐほとんど唯一の共通点になるから。

 

トランプが大統領になる流れの中で、

まるで亡霊の蘇りのように、

白人主義的な思想がにわかに台頭してきました。

また、レベル感の違う話ですが、

日本ではやたらと「不倫」がブームになって

沢山の共感を呼んでいたりする。

 

これらの現象は、個人主義のリバウンド、

寄る辺を失った人々が本能の声に思わず飛びついた結果のようにも思われるのです。

 

私は、価値観の多様化と統一の間には

最も心地良い中庸のポイントがあると思っています。

行き過ぎた個人主義

価値観多様化の無思慮な賞賛は、

人をあまり幸せにはしないと思うのです。。。

 

とても大きな話なので、

まだ漠然としか考えられていないし、

自分の意見にそんなに自信もないのですが、

これからもっとこの問題について考えていきたいので、

その出発点として、この文章を残しておきます。

「非」合理主義

「合理主義」という言葉があります。

字義どおりには、「理に適うことばかりをやっていこうぜ」という考え方。

実際には、経済的な意味で理に適う行動、という意味合いで使われることの多い言葉です。

 

私はこの言葉に何かしら逆説的な印象を抱きます。

 

天体の運動しかり半導体回路の挙動しかり、

そもそも世の中のモノは、全部物理法則に従って

「合理的」にしか振る舞い得ないはずです。

そのような中、人間をはじめとしたある程度複雑な生物だけが

「非合理」な振る舞いをしています。

(少なくとも見かけ上非合理に思われます。)

 

この視点に立つと、「非合理に振る舞える」というのは

人間(およびその他の生物)だけが獲得した

ある種の「能力」なのではないかというように思えてくるのです。

例えば芸術活動は何の物質的利益も生じない、経済的に非合理な活動です。

しかし芸術は、GDPには現れない豊かさの源です。

「非合理性」というのは、「豊かさ」と何かとても深い関係を持つ概念に思われます。

もっと言えば、「自由」とは「理にかなわない行動を選択できる能力」のことではないでしょうか?

 

そんなことを思うと、

「非合理的に振る舞う能力」を獲得した人類が

あえて合理性を追求するというのは、

なんだか先祖返りをやっているような気がしてくるのです。

 

前の記事で

kindleを使ってみて改めて紙の本の良さに気付いたという話を書きましたが、

合理主義を突き詰める中で「非合理」の世界の価値が

相対的に照らし出されていくような流れが起こると

もっと面白い世界になっていくような気がします。

kindleと紙の本

今日はずいぶん天気が悪くて、

夕方には雷がバリバリ鳴っておりました。

とても外に出かけられるような様子ではなかったので、

お家でコーヒーを飲みながら本を読んでおりました。夏目漱石の『坊ちゃん』。

kindle上で購入した電子書籍です。

 

半年くらい前にkindleを買いまして、

なかなか便利で愛用しております。

とはいえ、紙の本には紙の本の良さも感じるので、

いまだに紙の本もよく買ったりします。

おそらくkindleをお使いの方の多くが

同じような使い方をされているのではないでしょうか。

 

電子書籍と紙の本を比較したときに、

電子書籍の長所として一番感じるのは、

何といっても場所を取らないというところ。

外に持ち歩くときは、まるで「本棚」を携帯しているような感覚です。

『坊ちゃん』も、夏目漱石全集を丸ごとkindleに入れて読んでおります。

(ちなみに青空文庫上のデータを再構成したような商品なので、

200円くらいで全集が買えてしまう。)

 

また、kindleは単なる電子書籍リーダーではなく

amazonを通して書籍をオンライン購入する機能も備えています。

「本」「本棚」だけでなく「本屋」としての役割も果たしているということですね。

データ化された書籍をワンタッチで購入してすぐ読めるというのは大変手軽で、

ちょっと面白そうな本を見かけるとついついポチっとしてしまいます。

(結果読み切れないほどの本を買いがち、、amazonにしてやられてますね 笑)

 

一方で、紙の本だとページをぱらぱらめくって

読みたいところだけを読むような読み方ができますが、

kindleを使い始めてパラパラめくりができなくなると、

それが予想外に不便であることに気づきました。

名言集とか哲学書みたいな本だと、

一部分だけを読み返したくなりがちなので

紙書籍の方が向いているなと感じます。

紙を束ねた書籍という形態は、

実はある種の長い文章を読むためのインターフェースとして

非常に優秀なんですね。

 

また、紙の本を本棚にたくさん並べると、

収集欲が満たされるような感覚があります。

紙の本が持つ様々な微妙な魅力を電子書籍が代替することは

どれだけ技術が進歩しても難しそうです。

 

kindleというのはよく「本」を近代化したものと捉えられがちですが、

こうやって考えてみると、実はこいつは

「本棚」「本屋」を便利な形に置き換える存在なのでしょうね。

書籍を読むインターフェースとしての機能や質感といった「本」としての側面では

紙の書籍に劣るけれども、

「携帯できる本棚」「家から買える本屋」として、革新的な利便性を備えた道具である、と。

 

今後も紙の本とkindleを並行して愛用していくことになりそうです。