考えがち

難しいけど面白いことを考えて、やさしく面白い伝え方ができる、そんな人になりたい。

夢の重心をずらす

趣味でも仕事でもそうだが、一生懸命、人一倍努力しているのに、いつまでたっても報われない人がいる。僕自身、趣味でやっている楽器がそうだった。

 

ずっと努力していれば、いつか報われるかもしれない。その可能性があるのに、途中で諦めてしまっていいのだろうか。そんな思いで毎日ひたむきに努力を重ねるが、ただただ消耗していく。

 

人間だれしも何かしらの才能を持っている、とはよく言われる。でも、才能の在り処と夢の在り処とは、離れている事が普通だ。たまたま才能と夢とがうまく噛み合っている人は、「天才」と呼ばれるほどのパフォーマンスを発揮する。一方で、自分の才能と夢のずれをうまく把握できないと、時間ばかり過ぎていくことになってしまう。

 

だから、自分に才能が無いと思った時、本当に必要なのは「努力」ではなく「移動」だと思う。自分の性質にフィットする土地に出会うまで漂流すること。夢の重心をずらしていくこと。

 

「才能を磨く」ことはできる。でも、無い才能を創り出すことはできない。だから、自分の才能が光る土地まで「移動」する。すると才能は自然と磨かれていくものだと思う。

 

例えば楽器を弾いているとして、「楽器をやめろ」という話をしているのではない。「今まではこういうプレイヤーになりたかったが、自分の特性を考えるとこういうのもありだな」というようなちょっとした転換で、夢と才能が噛み合い出す場合があると思うのだ。

 

とはいえ、場合によってはそれは今までの夢を諦めることにあたるかもしれない。でも、生まれてから今までに出会った夢が、本当に見るべき夢かどうかなんて分からない。そして、事実として、今のところその夢は才能とうまく噛み合っていないようなのだ。

 

そんな時に、ちょっと夢のあり方を考え直してみるのもいいんじゃないだろうか。苦しみながら夢を追うというのは、必ずしも正しい在り方とは限らない。

渋谷の不思議な男女の話

先日渋谷のカフェにいたら、隣のテーブルの男女が不思議な会話をしていた。

「私、グロテスクなモノって『美しい』と思うんです。」

と女性は言っていた。ピンクの長い髪をした、かなり目立つ風貌の方だった。

 

正直僕がそんなことを言われたらドン引きして返答に詰まると思うのだけど、男性の方はウンウン相槌を打っていた。2人の関係性もだいぶ気になるところだったが、何よりその異様な会話が気になり、しばらく聞き耳を立ててしまった。

 

彼女の言っていた「美しさ」は、僕が夕焼けを見て感じる「美しさ」と同じ感情なのだろうか。それとも、全く異質なものを同じ名前で呼んでいるだけなのだろうか。

 

でも、思えば自分の中でも「美しさ」の範疇はかなり広がっている。

見事な絵画、優雅な音楽、洗練された数式、整然とした理論、顔立ちの整った女性、一貫した生き方、合理的な投球フォーム、

こういった多岐にわたる、一見共通点の見出しづらい対象に対して、僕は一括りに「美しい」という感想を抱く。「美しい」って、何のことなのだろう。

 

共通点を考えてみると、美しいものに対しては思わず「見入ってしまう」あるいは「聞き入ってしまう」と言えそうだ。見聞きできない抽象概念にも美を感じたりするが、その場合も「心を惹かれる」。思わず意識を向けたくなる対象を、人は「美しい」と表現したくなるように思われる。

 

と、ここまで考えてWikipediaを調べてみたら、美とは

「知覚・感覚・情感を刺激して内的快感をひきおこすもの」(出所は広辞苑)

とのこと。なるほど。そんな感じだ。

 

でも、本当の問題は、上に挙げた諸々の物事が、あるいは渋谷のカフェの男女にとっての「内臓」が、なぜどれも「内的快感」を引き起こすのか、ということだ。それぞれの対象の含んでいる何かが、人の心に響いていると思うのだが、それは一体何なのだろう。

 

考えてみると、美しいものの多くは「秩序」と関係している。上に挙げた例もどれもとても「秩序立っている」物事と言えそうだ。人は秩序を目にすると内的快感を覚える、というのが1つあるだろう。

 

しかし、内臓は何なのだろう。僕が映画とかで内臓を目にしても特に「快感」を覚えない以上、僕がその「美」の根源を突き止めるのも所詮無理なのだろうか。謎は謎のままである、、、

意識高い系、日本人の心理

「意識高い系」という言葉が生まれて久しい。

何かにチャレンジしようとしている人の足を引っ張るような言葉で、あまり好きじゃないけれど、

一方でいかにも身の丈に合わなそうな夢を標榜して、まずはMacBookで形から入ったりする人に滑稽さを感じてしまうのも事実だ。

 

なんで人は、「意識高い系」を見ると笑いたくなるように出来ているんだろう。

何となく、この心理は日本人的なものな気がする。アメリカ人とかはそういう笑い方はしなさそうだ。

 

自分よりダメだと思ってたやつが自分を押しのけてずんずんのし上がっていくのが怖いのだろうか。

でも、アメリカ人はそれが怖くないのだろうか。

 

日本人の多くは、チャレンジすることをハナから諦めているところがあるかもしれない。

そういう人にとって、「チャレンジする人」は恐怖だろう。だって、自分自身はちっとも前に進んでいないんだから、かなりの確率で追い抜かれることになる。

 

なんだかそんな気がしてきた。

「意識高い系」を笑いたくなるときは、多分自分がチャレンジしていないときだ。気をつけよう。

 

生き方について

自分に合った生き方を生きる、というのはなかなか難しい。

どんな風に生きれば楽しく生きられるのか、全然見えてこないし、

例えそれが見えてきても、世間的にぶっ飛んだ生き方だったり、

収入の不安定な生き方だったりすると、

なかなか思い切って舵を切ることができないのが人間だ。

 

僕の友人に、自転車で世界一周旅行をしている人がいる。ヒゲもじゃの面構えで、大きなリュックを背負って、中央アジアとかの絶景を背にした写真をよくFacebookに上げてくれる。

彼は子供の頃から自由人で、論理より感覚で行動するようなタイプで、

旅人という生き方はそんな彼の気性によく馴染んでいるように思う。

 

でも、仮に自分が実は旅人的な生き方に向いているタイプだと分かったとして、

なかなか本当に旅に出るまでの心理的なハードルは高いだろう。

それを超えて旅に出た彼はすごい。

 

いろんなハードルがある。

身一つで海外を周りながらちゃんと生きていけるのか、とか、

いつかそんな生き方は続けられなくなるんじゃないか、とか。

そんなことをいちいち考える人は旅人には向かないのかな 笑

 

なんにせよ、自分らしく生きるというのは難しい。

その難しさは4つの要素に分けられると思う。

 

①自分がどういう人間なのか見定めるのが難しい

②自分の指向性に合った生き方を見つけ出すのが難しい

③その生き方を選び取るという決断が難しい

④その生き方の実現が現実的に難しい

 

単純に言ってしまえば①から④へと順にハードルを越えていくイメージなんだけど、

多くの人は結構①の段階でもうつまづいてしまうんじゃなかろうか。

僕自身、自分がどんな人間か、ちゃんと理解している自信がない。

 

一方、たまたま②の生き方と出会って、結果的に①を知る人も多いのかな。

楽しく生きている人達は、どちらが先の人が多いんだろう。

 

また後日もっと深掘ってみたいテーマ。

『しゃべくり』、中身とガワについて

『しゃべくり007』が好きです!

疲れたときにぼーっと見てると、気づけばニヤニヤしていて、元気になれてしまう。

特に美女ゲストの回を見るのが好きです 笑

 

『しゃべくり』って、一見トーク番組みたいに見えるけど、

冷静に見ると全然トーク番組じゃないですよね。

ほとんどゲストをお題にメンバーが大喜利をしているだけという 笑

中身が無いと言えば中身が無い、、

 

でも「中身が無い」という言い方も中々不公平ですよね。

『しゃべくり』で言えば、これだけ人を笑わせ元気にしているのに、

勝手にその要素を「ガワ」扱いされて、「中身が無い」とか言われたら、

あの温厚なホリケンもキレちゃうかもしれません。笑

 

よく「中身の無い人」という言い方をしますが、

実はそういう人は「ガワ」が「中身」なのかもしれませんね。

何を大事にするかは人それぞれですし、

受け取り手もそれをいろんな見方で見ればいい。

笑いについて

笑いって、不思議な現象ですよね。

可笑しいことが起こると人は笑います。

 

「可笑しさ」には個人差があります。

そして多くの場合、それは自分の中の「当たり前」と、

目の前の出来事との間の矛盾が立ち上げる気持ちです。

 

でも一方で、当たり前の物事の可笑しさに

ふと気づくこともあります。

そんなときは、

「当たり前」より「当たり前」な何かが、

心の底にあるのでしょうか。

直感、とでもいうべきような。

 

また、人はあまりにも上手くいきすぎな物事を、

かえって可笑しく感じて笑ってしまうことがあります。

矛盾していないということに、かえって矛盾を感じるのでしょうか。

 

そうこう考えると、「意外性」こそが笑いの本質でしょうか。

そしたら、「驚き」と「笑い」の間にあるものは何でしょうか。

 

そして、ヒトは笑いますが、猫は笑いません。

 

笑いって、人の感じる様々な感情の中で、

一番謎に包まれていると思いませんか。

ほぼ日、若さについて

私は「ほぼ日刊イトイ新聞」を毎日読んでるタイプの人間です。

糸井重里さんが毎朝「今日のダーリン」というコラムを書いている。

 

とても瑞々しく面白い文章を毎日書いてくれる糸井さんなんですが、

改めて調べてみると、もうそこそこお爺ちゃんです。

御歳68才。

でもお写真を見ても若々しい。

 

アタマの若々しさと、カラダの若々しさが

まるで相関しているような例って、

結構見かける気がします。

(逆も然り)

 

こういうのって、

アタマとカラダ、どっちが原因なんでしょうね?

いわゆる「鶏と卵」の関係なのかな?

 

個人的には、カラダが先に来るような気もしています。

カラダというか、見た目。

見た目が若々しい人は、実年齢よりも若い人として扱われがち。

すると、周りの扱いに合わせて、

精神も若さを保とうとするように思われます。

 

見た目の若さって、

肌年齢やら何やら以前に、

ちょっとした姿勢の良さとかでも生み出せるもの。

 

若々しい見た目、振る舞いを心掛けたいものですねぇ。