考えがち

難しいけど面白いことを考えて、やさしく面白い伝え方ができる、そんな人になりたい。

価値観、孤独について

2010年代のインターネットは、

人々のモノの考え方に対して

根本的な影響を与えてきたと思います。

 

10年、20年前の社会では、

人々は世の中を、

テレビや新聞といった代表的なマスメディアが伝える

指折り数えられる程度の角度からしか眺めることができなかった。

 

それが今では、

ツイッターやらまとめサイトやら、

そういった「個人の意見を伝える」メディアを通じて、

世の中が多面的な、ほとんど無限にたくさんの角度から

見られるようになりました。

 

世の中の見え方がミラーボールのように多面的になった、

それが2010年代という時代に現れた

大きな変化です。

 

その結果として、社会や人生に対する人々の意見の多様化が進んできました。

自分と同じ見方で世界を見て、

自分と同じような考え方で世界を考える、

そんな人とリアル空間で偶然出会える可能性は、

きっと昔より大きく減ってしまったのではないでしょうか。

 

「価値観の多様性を大事にしていこう」ということは、もっと昔から言われていました。

ツイッターなどの個人発信メディアの進化は、

その潮目に向けて強い追い風を吹かせました。

 

そういう大きな流れの中で

人々はどんどん、それぞれに孤独になってきた。

 

すると、人は自分の生き方というのを、

ほとんど自分一人の頭で考えなくてはならなくなる。

でも、それは結構きついことだと思うのです。

みんながそのような、自分の人生を一から十まで自分で引き受けないといけないという

きつさを抱えて生きている。

 

一方で反動として、

本能的・衝動的で安易な意見が突然幅を利かせたりします。

本能というのは、価値観の多様化した社会においても、

人々を繋ぐほとんど唯一の共通点になるから。

 

トランプが大統領になる流れの中で、

まるで亡霊の蘇りのように、

白人主義的な思想がにわかに台頭してきました。

また、レベル感の違う話ですが、

日本ではやたらと「不倫」がブームになって

沢山の共感を呼んでいたりする。

 

これらの現象は、個人主義のリバウンド、

寄る辺を失った人々が本能の声に思わず飛びついた結果のようにも思われるのです。

 

私は、価値観の多様化と統一の間には

最も心地良い中庸のポイントがあると思っています。

行き過ぎた個人主義

価値観多様化の無思慮な賞賛は、

人をあまり幸せにはしないと思うのです。。。

 

とても大きな話なので、

まだ漠然としか考えられていないし、

自分の意見にそんなに自信もないのですが、

これからもっとこの問題について考えていきたいので、

その出発点として、この文章を残しておきます。